少し前、相互フォローしている人が、こんな趣旨のことを書いていた。
AIを使ってうまくできるのは、イラストにしても文章にしても、もともとそれができる人なんじゃないか。
それを見たとき、
「ほぅ、なるほどな」
と思った。
その場では、なんとなく分かる気がする、くらいだった。
でも最近、AIと一緒にこのブログを作りながら、あーでもない、こーでもないと延々やっていて、
「これ、そういうことかもしれんな」
と思うようになった。
AIは文章を書いてくれる。
しかも速い。
構成も作る。
タイトルも考える。
調査もする。
ぼく一人なら数時間かかる作業を、かなり短縮してくれる。
じゃあ文章を書く能力なんて、もういらないのか。
たぶん、そんな単純な話ではない。
なぜなら最近ぼくがAI相手に一番よく言っている言葉は、
「違う」
だからだ。
AIが書いた文章は、普通にうまい
まず前提として、生成AIは文章が苦手な人にとってもかなり強力な道具だと思う。
「文章が得意な人じゃないとAIも使えない」
とまで言ってしまうと、これはたぶん違う。
実際、生成AIを使った文章作成の実験では、作業時間が短くなり、文章の評価も上がったという結果が出ている。
しかも面白いのは、もともとの成績が低かった人ほど大きな恩恵を受け、能力差が縮まったという結果だ。
カスタマーサポートの現場を調べた別の大規模研究でも、AIによる生産性向上は、経験の浅い人やスキルの低い人ほど大きかった。
つまり、
AIは初心者を底上げする。
これはかなりありそうだ。
文章が苦手でも、真っ白な画面の前で固まる必要がなくなる。
絵を描けなくても画像を作れる。
プログラムを書けなくても、ある程度コードを出してもらえる。
「作れない」から「とりあえず作れる」への壁は、ものすごく低くなった。
ここはAIの大きな力だと思う。
でも最近、ぼくはその先で別の壁にぶつかっている。
30年の経験が「特徴6選」になっていた
この具体例については、前の記事で詳しく書いた。
→ AIに整えさせたら、30年の現場経験が「特徴6選」になっていた
今回は、その違和感になぜ気づけたのかを考えたい。
じゃあ、なぜぼくは「違う」と分かったのか
ここで最初の話に戻る。
なぜぼくは、
「この文章、なんか違う」
と分かったのか。
考えてみれば、ぼくは昔から文章をかなり書いている。
ブログも書いた。
Xにも大量に書いた。
文章の仕事もしてきた。
人の文章を読んで、
「ここ弱いな」
「この結論だと逃げてるな」
「これはきれいだけど本人が消えてるな」
みたいなことを考える習慣もある。
だからAIが出した文章を見て、
文章として成立していることと、良い記事であることは別
だと判断できる。
もし文章をほとんど扱ったことがなければどうだろう。
AIが、
見出しもきれい。
誤字もない。
論理も通っている。
2000文字あります。
SEOっぽいタイトルも付いています。
という文章を出してきたら、
「うおお、できた!」
で終わっていた可能性はある。
AIが80点のものを一瞬で出してくれるようになったとしても、
80点と100点の違いが見えるようになるとは限らない。
ここは別の能力なんじゃないかと思う。
「作る力」と「見る力」は、同じではない
文章なら、
「この言葉は違う」
「ここは説明しすぎ」
「この具体例の方が強い」
が分かる。
絵を描いてきた人なら、
構図。
人体。
光。
色。
視線の流れ。
そのあたりを見て、
「なんとなく良さそうだけど、ここ変だな」
と気づくことがあるだろう。
プログラムを書いてきた人なら、AIが動くコードを出してきても、
「動くけど、この設計は危ないんじゃないか」
と見るかもしれない。
営業をやってきた人なら、AIが作った立派な営業メールを見て、
「こんなん客に送っても心動かんわ」
と気づくこともある。
AIは成果物を作るところまでは一気に連れていってくれる。
でも、
その成果物のどこを見るべきか
までは、その人が今まで積んできたものに左右される。
ここで、最初に見た投稿の意味が少し分かってきた。
「元からできる人だけがAIを使える」
というより、
元から持っている技能が、AIを評価するときの物差しになる。
たぶん、こっちに近い。
ただし、ベテランならAIをうまく使えるわけでもない
これも調べると面白かった。
AIと人間の共同作業について、BCGのコンサルタント758人を対象にした実験がある。
AIが得意な範囲の仕事では、AIを使った人たちは仕事が速くなり、成果の質も上がった。
ところがAIの能力範囲から外れた課題では、AIを使ったことでかえって正答しにくくなったケースがあった。
相手はBCGのコンサルタントだ。
素人ではない。
それでも、AIがもっともらしい答えを出すと引っ張られることがある。
だから、
経験さえあれば大丈夫
という話でもない。
自分の専門知識。
AIについての理解。
そして、
「ここはAIに任せる」
「ここは自分で見る」
「これは怪しいから調べ直す」
という判断。
全部いる。
AI時代の「できる人」は、単に昔の技術が高い人でも、プロンプトがうまい人でもないのかもしれない。
最近ぼくがAIとしていることは、ほとんど検品である
最近、このブログの記事を作るときの会話を見返すと面白い。
AIが原稿を出す。
ぼくが読む。
「ここ違う」
直す。
「いや、それでもない」
また直す。
「この話、本当にそうなの?」
調べる。
「こっちの反証も探して」
調べる。
「結論そこじゃない」
戻す。
「それは実際にはこうだった」
一次情報を足す。
……延々これであるw
以前、別の記事で、
AIに作業を任せるほど、人間は「判断」を引き受けることになる
と書いた。
今は、その続きを考えている。
じゃあ、その判断はどこから来るのか。
たぶん一部は、
AIが登場する前に、自分が積んできたもの
から来る。
文章を書いてきた時間。
現場で失敗した経験。
客に怒られた経験。
何百人も面接した経験。
仕事がうまくいったときの感覚。
「これは危ない」と感じる勘。
そういうものが、
AIの答えを検品するときの基準になる。
50代の経験は、AIによって無価値になるんだろうか
これは福本ラボでずっと考えているテーマでもある。
AIがこれだけ仕事をするようになったら、
今まで20年、30年積んできた経験なんて意味がなくなるのか。
ぼく自身、もう50代だ。
若い人とAI操作の速さで競争してもしょうがない。
最新ツールだって、次から次へ出てくる。
でも今回ブログを作りながら思った。
もしかすると逆なのかもしれない。
AIによって、
「作る」という作業そのものの価値は下がる部分がある。
文章の初稿を作る。
資料を整理する。
案を10個出す。
ここはAIが猛烈に速い。
その代わり、
何を残すか。
何を捨てるか。
どこがおかしいか。
何を信じるか。
最終的に何を出すか。
こっちの比重が上がる。
だったら20年、30年の経験は、
AIと競争するためのものではなく、
AIを使うための物差し
として使えるんじゃないか。
少なくとも、ぼくは今そう感じている。
AIは初心者を強くする。でも、経験者の経験まで消すわけじゃない
最初の問いに戻る。
AIをうまく使えるのは、もともとそれができる人なのか。
今のぼくの答えは、
半分YESで、半分NO。
AIは、できなかった人をかなり強くする。
研究を見ても、その効果は確かにある。
だから、
「文章が苦手だからAIを使っても無駄」
なんてことは全然ない。
むしろ使った方がいい。
でも、
AIが作ったものを見て、
「これでいい」
と言うのか、
「いや、違う」
と言うのか。
その差を作るものの一つは、やっぱりその人が今まで積んできた経験なんだと思う。
AIによって「作る力」の差は縮まる。
その一方で、
「見る力」の差が前に出てくる。
だったらAI時代に昔の技能が全部無価値になるわけじゃない。
形が変わるだけだ。
自分で全部作るために使っていた能力が、
今度は、
AIの仕事を見抜くための能力になる。
AIが80点を一瞬で作る時代。
ぼくら人間に必要なのは、
80点をゼロから作る速さではなく、
「あと20点、何が足りない?」と分かる目なのかもしれない。


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